-
奈良時代
-
神亀4年(727)
摂津国司・藤原致房の子息である善仲・善算兄弟が当山に登り、大般若経書写の大願を果たすため草庵を構えて修行を始める。
-
天平神護元年(765)
光仁天皇の皇子、当山に入り善仲・善算と出会う。二人を師として受戒、開成と名乗る。
-
神護景雲元年(767)
天台宗の開祖・最澄が近江国に生まれる。最澄は弘仁13年(822)に比叡山で入滅。その後、清和天皇より伝教大師の諡号が贈られた。
-
宝亀5年(774)
真言宗の開祖・空海が讃岐国に生まれる。空海は承和2年(835)に高野山で入滅。その後、醍醐天皇より弘法大師の諡号が贈られた。
-
宝亀6年(775)
開成、善仲・善算の貴志を継いで書写した大般若経600巻を仏像や仏具ともに新設の堂に奉納し、この堂を弥勒寺と名付ける。
-
宝亀11年(780)
仏師・妙観が来山。本尊十一面千手観世音菩薩像を刻んで講堂に安置する。妙観は観音の化身と人々が称した。
-
天応元年(781)
開成示寂。享年58。当山初代の座主である。
-
-
平安時代
-
嘉祥元年(848)
唐より帰国した最澄の弟子・円仁が比叡山延暦寺に常行堂を建立する。常行堂は円仁が唐より伝えた五会念仏を行う場所であり、勝尾寺にも平安時代に建てられた。五会念仏は後に天台声明と呼ばれるようになる。
-
貞観9年(867)
勝尾寺第4代座主・證如入滅。享年87。
-
元慶4年(880)
前年に落飾した清和上皇は、この年「名山仏壠を歴覧」することを望み、勝尾寺にも参詣した(『日本三代実録』)。「勝尾寺文書」所収の縁起には、勝尾寺第6代座主・行巡による清和天皇の病気平癒の霊験譚が記されている。
-
永承7年(1052)
釈迦の入滅後、仏教は正法・像法・末法の三時を経過して衰滅するという考えを末法思想という。日本では、この年に末法の時代に入ったと信じられ、それを思わせる社会現象が続出し、無常観や厭世観が広まり、念仏による往生を願う浄土信仰が盛んになった。浄土信仰の道に入ったものを「聖」と呼ぶが、平安時代末期に後白河上皇が編纂した『梁塵秘抄』には、「聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ・・・」とみえ、勝尾寺は聖が集う場所として広く認知されていたことが分かる。
-
承暦4年(1080)
公卿・源俊房の日記『水左記』に、勝尾寺住僧の頼命が大堰川(桂川のうち京都府亀岡盆地から上流)で荒神祓を行った記事がみえる。
-
長承元年(1132)
融通念仏宗の開祖として知られる良忍が入滅。良忍によって天台声明は「魚山声明」として体系的に整理された。
-
康治元年(1142)
魚山声明の一系譜にあたる浄心流を相伝した光覚という僧の名前が「勝尾寺文書」に初めてみえる。光覚は『愚管抄』の著者として知られる慈円と同門で、鎌倉時代の史料によると勝尾寺の「住侶」(寺に住む僧)であったとされる。
-
寿永3年(1184)
源平内乱により勝尾寺は全山焼亡。翌年より再建事業が始まる。
-
-
鎌倉時代
-
承元2年(1208)
浄土宗開祖の法然が勝尾寺第4代座主・證如の旧跡に移り、約4年間逗留する。後にこの旧跡は二階堂と呼ばれ、近くには法然供養の五輪石塔が建立された。現在、同所は法然上人二十五霊場の一つ第五番霊場となっている。
-
寛喜2年(1230)
寺領山林の周囲8ヵ所に「八天石蔵」が築造される。山麓の村との境界争論を太政官の裁許で勝訴したので寺領の境界標として築造されたが、その地中に障難防護を念じて「四天王・四明王像」が埋納された。
-
寛元元年(1243)
現存する最古の勝尾寺縁起、「応頂山勝尾寺古流記」が沙弥心空の手で作成される。また、この年に本堂の薬師像と百済国皇后帰依伝説をもつ観音像が京都で開帳された。
-
寛元3年(1245)
坂本の地(現在の粟生新家)に大鳥居が造立される。この大鳥居の扁額を記したのは世尊寺行能。世尊寺家の祖は能筆家として知られる藤原行成で小野道風・藤原佐理とともに三蹟と呼称されたことは有名。以後、世尊寺家は「能筆の家」として知られ、いわゆる世尊寺流として中世書流の基幹となった。行能は世尊寺流8代目にあたる。
-
寛元5年(1247)
9名の勝尾寺僧の署名により、10ヶ条の寺法が制定される。寺僧間の私的関係の発展や寺僧の世俗化の進行を抑制する内容となっている。
-
宝治元年(1247)
勝尾寺山門を起点に旧参道の7町目までの間に町石が8基造立される。これは現在知られている町石としては最古のものである。
-
文永5年(1268)
公卿・菅原在宗が従三位に加階され、息子も大内記に就任する。在宗はこれを勝尾寺僧による大般若経転読の効験であるとお礼の書状を送っている。
-
文永6年(1269)
後嵯峨法皇の院宣により阿闍梨三口が設置され、勝尾寺は御願寺(天皇や皇族のために祈願を行う寺)となる。
-
文永10年(1273)
六波羅探題の奉行人・斎藤四郎左衛門入道へ送付予定の「志笋」(新しく生え出た若い竹の子)の収穫状況に関する文書が残されている。勝尾寺と六波羅探題の関係は他にも確認でき、例えば「二階楼門」造営の際には六波羅探題より奉加状(神仏に奉加する財物に添えて社寺に差し出す文書)が勝尾寺に出されている。
-
弘安7年(1284)
これより前のいわゆる蒙古襲来に伴い、幕府や朝廷は諸社寺に異国降伏祈祷を命じた。勝尾寺へはこの年、鎌倉幕府よりその命令が下されている。なお、この命令は複数回にわたって出されたが、正応元年(1288)に亀山上皇より命じられた際には、大般若経600巻の転読が行われた。
-
永仁6年(1298)
鎌倉幕府9代執権・北条貞時が嫡子の安産祈願を依頼した書状によれば、「天竺舎衛国の祇園精舎・唐土陽明州の白馬寺」に並ぶ「荒神の聖跡」として「日域(日本)の摂州勝尾寺」が位置づけられている。
-
乾元2年(1303)
導御によって勝尾寺での千座舎利供養(仏舎利を供養する法会)への諷誦文(施物や趣旨を記したもので、法会に際して読み上げられる)が作成される。導御は唐招提寺中興第4世長老で、洛西の法金剛院や清凉寺で融通大念仏会を催し、10万人を集めたことから十万上人の通称で知られる律僧である。
-
乾元2年(1303)
亀山上皇の後宮・昭訓門院(藤原瑛子)の「御産」のために「三十三所観音霊所」で「御誦経事」が行われ、勝尾寺の名前も確認できる(宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵「昭訓門院御産愚記」)。昭訓門院は同年、恒明親王を出産。勝尾寺は「西国三十三ヶ所」の一つで観音巡礼の聖地として知られるが、12世紀頃には観音霊場を標榜するようになっていた。
-
嘉元2年(1304)
勝尾寺の年行事(寺務の統括者)と常行堂の上執事・下執事(常行堂の僧職)の連名で置文(寺法)が制定される。これによると勝尾寺の常行堂には置米(貯蓄米)が保管されていた。この置文は置米の私用を禁じるものであるが、その監視を摩陀羅神に願った形式となっている。天台系寺院の常行堂に摩陀羅神が祀られている事例は他にもあるが、この置文はその最古の明証とされる。
-
延慶4年(1311)
後伏見上皇の女御・広義門院(藤原寧子)の「御産御祈」の「観音御読経」が「三十三所」の寺で行われ、勝尾寺の名前も確認できる(宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵「広義門院御産愚記」)。広義門院は同年、後に後醍醐天皇の中宮となる珣子内親王(新室町院)を出産。
-
-
南北朝時代
-
建武3年(1336)
足利尊氏より京都での新田義貞との戦いに増援に駆けつけるよう要請が出される。またこの年、尊氏より勝尾寺の「山領」への「軍勢・甲乙人」の立ち入り禁止と「御祈祷」の命も下されている。
-
貞和5年(1349)
坂本の地の大鳥居の修築が始まる。この事業には将軍・足利尊氏を始め室町幕府関係者も多数奉加している。その他、公家や寺僧、近隣の土豪・農民からの奉加も確認でき、階層を問わず広い支援が行われた。
-
正平7年(1352)
院主権律師忍能・年行事拾賢・他18名の勝尾寺僧の署名で寺法が制定される。寛元5年に制定された寺法を再確認・徹底させたものと考えられ、違犯者には油1升の賠償が科せられた。
-
文和2年(1353)
室町幕府2代将軍・足利義詮より勝尾寺の領地「四至内」での殺生・伐木を禁じる命が下される。
-
文和4年(1355)
足利義詮より「天下静謐御祈祷」の命が下される。同様の命令が延文5年(1360)にも下されている。
-
応安4年(1371)
勝尾寺における如法経会に関する史料の初見。如法経は「法の如く書写する」ことで、法華経の書写で結縁し、死者の追善と自身の逆修を供養する法会を如法経会と呼んだ。如法経会は12世紀末に比叡山で儀式作法化され、13世紀に天台宗の地方寺院に展開していったとされる。
-
康暦2年(1380)
旧寺域の光明院谷に北朝天皇の供養七重石塔が建立される。台座に「大光明院」と「□七七供養造石塔」の刻文がある。
-
康応元年(1389)
募縁疏(寺の建設、修復などのために広く資金を募る文書)が作成される。「嘉慶戊辰」(1388年)に「准三后左相府征夷大将軍」(室町幕府3代将軍・足利義満)より国の繁栄を祈るよう命じられたため、「吾儕吐気懽呼」(勝尾寺僧たちは意気盛んに喜びの声をあげた)が、「殿宇頽残像設昏霾」(堂舎は壊れており、仏像は暗闇に包まれてしまっている)ので、復興費用を集めるため募縁疏を作成したと記している。
-
-
室町時代
-
応永6年(1399)
室町幕府3代将軍・足利義満より御判御教書が下され、勝尾寺の領地への「守護不入」ならびにそこでの「殺生・伐木」が禁止される。また、この年にはいわゆる応永の乱も勃発したため、義満より「凶徒対治御祈祷」の命も受けている。
-
応永13年(1406)
臨済宗の僧・観中中諦が入滅。中諦は夢窓疎石に師事し、京都五山第二位に列せられた相国寺の第9世住持である。「勝尾寺文書」には中諦からの書状が残されており、摂津国守護の細川氏から勝尾寺に発給された「制札」(勝尾寺の領地保護に関する文書)の仲介をしていたことが分かる。
-
応永18年(1411)
室町幕府4代将軍・足利義持より御判御教書が下され、勝尾寺の領地内での殺生や伐木といった「濫妨」の停止が命じられる。
-
応永30年(1423)
足利義持より将軍家祈願寺に認定される。これに際しては、かつて東寺一長者も務めた大覚寺門跡の院家・金剛乗院に住む真言僧俊尊の活躍が大きかったされる。
-
永享3年(1431)
「勝尾寺縁起絵四巻」が「内裏為入見参」(後花園天皇へ御覧に入れるため)、京都伏見に位置した法安寺の仲介を経て勝尾寺より貸し出される(『看聞御記』)。
-
永享8年(1436)
この年に勝尾寺で行われた「請雨」の祈祷は、講堂で「千手陀羅尼五十反」、三所権現宝前で「尊勝陀羅尼十反」、「ゑひす」で「九条錫杖・尊勝陀羅尼一反」、本堂で「九条錫杖・経段」、般若峰で「九条錫杖・経段・尊勝陀羅尼三反・般若心経三巻」を毎日1度唱え、他に庭で「大こ」(太鼓)を打ったと記録されている。
-
嘉吉元年(1441)
摂津国守護・細川持之より勝尾寺の領地へ安堵の「御判」が下される。これ以降も、勝尾寺は必要に応じて摂津国守護の細川氏へ安堵の「御判」を申請した。
-
文安4年(1447)
山麓の粟生村に位置する菩提寺の別当職が勝尾寺に寄進される。別当とは本来の職とは異なる職の兼帯を指す。以後、この別当職は勝尾寺の院主が務めて菩提寺の経営に携わることなり、次第に同寺を末寺化していったと考えられる。江戸時代の史料によると、もともと菩提寺は貞観年間(859~877)に勝尾寺第6代座主・行巡が創建したもので、「退老之地」(隠居後の住居)であったという。
-
宝徳3年(1451)
この年に作成された「巻数賦日記」という史料によると、勝尾寺は将軍や朝廷、あるいは摂津国守護や国人領主などに巻数を進上していたことが分かる。巻数は願主の依頼で読誦した経文・陀羅尼などの題目・巻数・度数などを記した文書または目録のことで、結願後に勤修者から願主に進上された。巻数の進上頻度は願主ごとに異なっており、それは「歳末」・「年始」・「四季」・「毎月」に大別できる。毎月の進上対象には「守護殿」(摂津国守護の細川氏)と「典厩」(細川氏の分家)があげられている。先に紹介した事例もあわせると、勝尾寺は15世紀半ば頃より守護(細川氏)との関係に重点を置いていったと考えられる。
-
長禄4年(1460)
細川氏の家臣・奈良元定が「御屋形様」(摂津国守護兼管領の細川勝元)へ勝尾寺縁起に関する話を申し上げたら、「御ちやうもんありたき由御意候」(勝尾寺縁起の話しを聞きたいと仰せになった)ので、読み聞かせのできる人物を連れて上洛することを依頼する書状が勝尾寺に出される。
-
-
戦国時代
-
明応4年(1495)
江戸時代末期の国学者・浅井幽清の編著『摂津徴書』第十所載「勝尾寺縁起」に付された永正14年(1517)10月付の「源高国」(摂津国守護の細川高国)の奥書によると、明応4年2月14日に勝尾寺は焼亡し、「縁起三巻」が「紛失」したと記されている。
-
大永3年(1523)
摂津国守護兼管領の細川高国より禁制が下され、勝尾寺の領地内での「狼藉」や「山林竹木」の伐採等が禁止される。
-
大永7年(1527)
いわゆる桂川合戦により、細川高国は室町幕府12代将軍・足利義晴とともに京都を追われ、代わりに高国と対立する細川晴元が勢力を伸ばす。細川氏や幕府は分裂状態となり、16世紀半ばに三好長慶が覇権を握るまで畿内は内乱状況が続く。
-
享禄3年(1530)
「清泰院殿様」の仏事用途料を奥田長能に納める。清泰院は2年前に没した細川晴元の母(『細川系図』)で、奥田長能は「細川殿家来」の「奥田左衛門尉」と考えられる。「勝尾寺文書」には勝尾寺と奥田氏との関係が深かったことを思わせる史料が残されている。
-
16世紀前半~半ば
細川晴元の家臣・香西元成からの書状に、「「矢切」(飛んでくる矢を防ぐための盾)の材料となる竹が32本届けられて心より喜んでいる。非常に勝手なお願いとなるが、合計100本を希望するので、この書状を持っていく使者に残りの分を預けていただければ嬉しい」とある。具体的年代は不明であるが、勝尾寺の有する山林資源の需要に当時の内乱状況が影響していたことが分かる。この他、藤井数久なる人物から幟竿(幟(軍陣などの標識として用いる旗の一種)をつけて立てる竹竿)に用いる長い竹の用意を依頼している書状も残されているが、おそらく同時期のものであろう。
-
永禄11年(1568)
織田信長が室町幕府最後の将軍となる足利義昭を奉じて上洛。摂津国は西国を目指す信長にとって重要拠点となり、足利義昭の直臣・和田惟政を芥川城(現大阪府高槻市)に、摂津国の有力国人である池田勝正と伊丹親興をそれぞれ池田城(現大阪府池田市)と伊丹城(現兵庫県伊丹市)に据えた。この三人を「摂津三守護」称す。
-
天正13年(1585)
豊臣秀吉による「山検地」が行われ、勝尾寺の山林に対して「山年貢米1石2斗」の上納を定める。
-
-
江戸時代
-
慶長8年(1603)
豊臣秀頼から勝尾寺本堂再建のための浄財が施入される。この年、徳川家康が江戸幕府を開く。
-
正保2年(1645)
貞門俳諧の代表的作法書として知られる『毛吹草』が刊行される。編者は江戸時代の俳人で俳論・作法論でも独創的な業績が多い松江重頼。『毛吹草』は諸国の古今名物を載せており、摂津国の項には「伊丹酒」などとともに「勝尾寺氷餅」があげられている。氷餅は餅を液状にして厳寒のもとで凍らせ、十数日をかけて自然乾燥させたもの。食するときは熱湯をかけ、砂糖を加える。氷餅の存在は鎌倉時代から確認でき、菓子というより主食に近く、病人食や離乳食にも用いられたとされる。「勝尾寺氷餅」は参拝者の舌を楽しませたものと思われる。
-
明暦元年(1655)
黄檗宗の開祖・隠元隆琦が長崎より摂津国富田の普門寺に移る。隠元の孫弟子・別伝道経が元禄11年(1698)に作成した「応頂山勝尾寺続縁起巻之下」(『大日本仏教全書 寺誌叢書第二』所収)によれば、万治3年(1660)、普門寺にいた隠元は「以前に勝尾寺へ登って下方を眺めまわした。その際の「紀遊偈」がある」と語ったとされる。「紀遊」は遊覧、「偈」は仏の徳をたたえて仏法を説く詩の形の経文のことで、隠元直筆のものが勝尾寺の「宝庫」に納められていたという(現存の「勝尾寺文書」で確認できるものは後世の写か)。またこの時、勝尾寺僧は隠元に対して寺の草創を語ったが、百済国より送られた「金鐘・閼伽器」が「兵火」(源平内乱)によって焼失したくだりで、隠元は非常に嘆き悲しみ、「宣徳鳳臨閼伽器」を送ったという。「宣徳」とは中国明王朝5代皇帝・宣宗時代の年号で、「鳳臨」は鳳凰の姿を表現した模様のことか。延宝年間に勝尾寺僧はこの話しを後代の人々に信じてもらうため、隠元の後継者・木庵性瑫を招いており、その際に木庵によって作成されたと考えられる文書も残されている。
-
延宝2年(1674)
高野山釈迦文院へ、同寺の末寺であることを確認する定書を勝尾寺23坊の連判で送る。釈迦文院への末寺化を機に、勝尾寺の宗派は天台宗から真言宗に変わったと考えられる。
-
元禄11年(1698)
「光明院御陵」(旧寺域に位置する北朝天皇の供養七重石塔とその周辺)の整備が坂城安撫使・松平玄蕃守忠周・保田美濃守宗郷・永見甲斐守重直の主導で行われる。松平・保田・永見の3名は大坂町奉行で、この整備は江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の意向によるものであった。実際の整備にあたっては、勝尾寺の関係者とみられる「寺司」と呼称される人々が動いた(『大日本仏教全書 寺誌叢書第二』所収「応頂山勝尾寺続縁起巻之下」)。
-
天明9年(1789)
司馬江漢が勝尾寺へ参詣する(『江漢西遊日記』)。司馬江漢は、江戸中期の洋風画家。日本初の腐蝕銅版画の制作に成功し、遠近法の研究によって獲得したリアルな空間を表現した風景画で知られる。また、油絵を習得したのみらず天文や地理に関する著作や随筆も残した。『江漢西遊日記』は天明8年(1788)、洋画研究のため江戸を出立した江漢の旅日記である。それによると、江漢は同9年2月24日、箕面滝を見た後、「岩石を踏んでよじのぼり」勝尾寺に到達したと記している。また、江漢は同所でスケッチを行っており、当時の勝尾寺の様子の一端を知ることができる。
-
享和元年(1801)
徳本行者が勝尾寺の松林庵へ入る。徳本は浄土宗の僧で紀伊国日高郡の人。諸所に草庵を結び、木食草衣、長髪で高声念仏、苦修練行すること多年、わずかに『阿弥陀経』の句読しか習わず、宗義を学ばずして、おのずから念仏の教えの要諦を得たとされる。教化の足跡は紀伊はもとより、河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など広域に及ぶ。徳本の聖蹟をまとめた『徳本行者伝』(明治初期に活躍した浄土宗僧で仏教学者の福田行誡の著書)によると、享和元年、摂津国に滞在していた徳本のもとへ正覚院権僧都が勝尾寺の「惣代」として迎えにあがり、徳本は初めて勝尾寺へ登った。その時、勝尾寺では「小池院権大僧都をはじめ一山随喜」したとある。また松林庵へ入った後、徳本は勝尾寺の二階堂を道場として毎月15日に念仏を唱えたとされる。
-
文化8年(1811)
この年は浄土宗開祖・法然の「六百回御忌」にあたるため、法然と縁が深く、かつ徳本の逗留している勝尾寺には多くの参拝者が訪れた。『徳本行者伝』によれば、「勝尾の山寺に月参するもの五畿七道にわたりて凡そ二十二・三国ばかりなりき、剃度の式を請るもの月々に二・三千人、月並に通夜念仏するもの一千人に過ぬ」様子であった。
-